「一人の無辜を罰するなかれ」。これは司法を志す多くの法学生が心に抱く信念です。しかし現実には、痴漢冤罪事件のように明確な証拠が乏しいまま有罪判決が下される事例が少なくありません。いったいなぜ、理想と現実に乖離が生じてしまうのでしょうか。本記事では、裁判官が「疑わしきは被告人の利益に」という原則を守れなくなる構造的・心理的要因を探ります。
有罪率99%以上のプレッシャーと“無罪=異常”の空気
日本の刑事裁判では有罪率が99.9%とも言われています。これは一見すると「精密な捜査と裁判の成果」にも見えますが、裏を返せば無罪判決を出すことが極めて稀であり、それ自体が裁判官にとって「異例の判断」となっている現状を意味します。
こうした環境では、裁判官は無罪判決を出すことに慎重にならざるを得ず、“無罪にするなら相当な根拠が必要”という空気が支配的になります。
裁判官のキャリアと組織の論理
裁判官は定期的に人事異動があり、その評価には「無難な裁判をしているか」が影響を与えることもあります。つまり、異例の判断を避ける傾向が強くなりやすく、「空気を読む司法」が組織的に温存されやすいのです。
また、無罪判決を出した場合、マスコミや検察、被害者側からの批判にさらされるリスクが高く、「慎重にならざるを得ない」状況に置かれてしまいます。
痴漢事件のような“立証が難しい犯罪”に潜む危うさ
痴漢冤罪事件では物的証拠が乏しく、「被害者の証言」が大きな重みを持ちます。裁判官としても、虚偽の申告だと断言するには大きなリスクが伴います。
被害者の証言が「一貫して信頼できる」と判断された場合、それだけで有罪とされるケースもありますが、証言の信頼性=真実とは限らないという点が、冤罪の温床となっているのです。
弁護人の活動と証拠の偏り
被疑者が無罪を証明するための証拠を自力で収集するのは非常に困難です。日本では「証拠開示」の範囲も限られており、弁護側が検察の持つ証拠にアクセスできないことも少なくありません。
こうした「構造的な非対称性」がある以上、裁判官の判断も検察寄りになってしまう傾向が出てくるのは避けられません。
理想と現実のギャップを埋めるには
法学生時代に抱いていた「疑わしきは罰せず」の理念が、制度的・心理的な圧力により変質していくのは自然な流れとも言えます。それでもなお冤罪を防ぐためには、無罪推定の原則の徹底、証拠開示の拡充、裁判官の独立性強化が不可欠です。
また、国民全体の法意識を高め、社会全体で「無罪も当然あり得る」という共通理解を育むことも重要です。そうした空気があってこそ、裁判官はより中立的に判断できるのです。
まとめ:裁判官が変わるのではなく、変えざるを得ない構造がある
現実には、裁判官が学生時代の理想を忘れたわけではなく、制度と環境がそうせざるを得ないように働いているのです。冤罪を減らすには、個々の裁判官の良心だけに頼るのではなく、司法制度そのものを改善していく必要があります。
その第一歩は、私たち市民一人ひとりが冤罪問題に関心を持ち、「おかしい」と感じたときに声を上げることかもしれません。