「やましいことがなければ見せられるはず」という言葉は、誰かの持ち物や情報の開示を正当化する常套句として使われがちです。しかし、それは本当に正論なのでしょうか?本記事では、プライバシー権や人間の尊厳という観点からこの主張の問題点を掘り下げます。
プライバシーは「何かを隠す」ためだけのものではない
プライバシーとは「秘密を隠すこと」ではなく、自分の情報や空間を自分の意思でコントロールする権利のことです。これは国際人権規約や日本国憲法にも関連する基本的人権のひとつです。
たとえば日記やスマホの中には、犯罪でも不正でもないけれど他人に見られたくない感情や記録が多く含まれます。それらは本人の人格や信念に深く関わるものであり、無断で開示を強制されるべきものではありません。
「やましさ」と「見せたくなさ」は全く別の概念
「やましいことがなければ見せられる」という主張は、「見せない=やましい」とする二元論ですが、実際は「プライベートなもの=やましい」わけではありません。たとえば病歴や恋愛相談のメッセージ、家族との写真などは、人に見せたくない内容でも不正や隠し事ではありません。
また、警察でさえ捜索には令状が必要です。それだけ「人の私物を見ること」には重大な意味があるのです。
実際の例:スマートフォンの中身を巡るトラブル
ある高校では、生徒がスマートフォンのロックを解除しないことで教師との間にトラブルが起きました。しかし、後に教育委員会は「生徒の同意なしにスマートフォンの中身を確認するのは過剰な指導」と判断しています。
これは、未成年であってもプライバシーを持つ主体であるという事実を社会が認めた例といえるでしょう。
「信頼」と「監視」は共存できない
信頼関係は「見せてもらう」ことではなく、「見せなくても信じる」ことによって成立します。パートナーや家族間でも、相手のスマートフォンや日記を無断で見ることは、信頼ではなく疑念と監視の始まりになります。
「やましいことがなければ見せられる」という論理の裏には、「相手を疑っている」「自分に情報の所有権があると思っている」という支配欲が潜んでいるケースも少なくありません。
情報化社会だからこそ大切にすべき「見せない権利」
スマートフォンひとつに、生活、交友、資産、思想の多くが記録されている現代。私たちは誰しも「情報のプライベート空間」を持っており、それを守ることは法的にも倫理的にも正当です。
見せないことは、何かを隠しているからではなく、自分の心の内や生活を守るため。これは情報化時代を生きる私たちにとって、ごく自然で正当な行動なのです。
まとめ|見せる・見せないは「信頼」の問題ではなく「権利」の問題
「やましいことがなければ見せられる」は、一見正論に聞こえる言葉ですが、プライバシーや個人の尊厳を軽視する危険な考え方です。見せるかどうかは信頼ではなく、個人の意思と権利によって決められるべきものです。
大切なのは、「見せなくても信じる」姿勢。お互いの距離や心の境界線を尊重することが、健全な人間関係の土台になるのです。