生野銀山は807年の開山から1973年の閉山まで、約1,200年にわたり稼働し続けた日本屈指の銀鉱山でしたが、その長い歴史の中で多くの鉱山事故や職業病による犠牲者が出ました。本記事では、事故や労災死亡者数を可能な限り明らかにし、生野銀山が抱えた過酷な労働条件を解説します。
歴史的背景と開山~閉山までの経緯
発見は807年、1542年から大規模採掘が開始され、1973年の閉山まで続きました。経営は室町~江戸期、明治以降は官営・民営を経て、最終的には三菱グループによって操業されました。
当時は坑道が350km以上にも及び、多くの労働者が関わっていたため、事故や職業病が深刻でした。
代表的な死亡事故:ケージ墜落事故
1938年6月には、地下坑道のケージ(昇降機)が墜落する重大事故が発生し、12名が即死しました。
翌1939年以降も類似の事故が続き、厚生省名簿によると最終的に16名が墜落事故で死亡したと記録されています。
労働災害と職業病による長期的な死者
坑道の狭さ、換気の不十分さから、粉じんやランプの排煙により、坑夫には《珪肺(けいはい)》等の職業病が蔓延しました。
研究によれば、生野銀山では短期的な事故だけでなく、長期的に肺疾患で労働者が若くして亡くなるケースも多く、代替労働者が確保しにくかったほど労働環境は過酷でした。
具体的な犠牲者数の確認
- ケージ墜落事故:12名(1938年6月)
- その他墜落事故:追加で4名(厚生省資料より)
- 職業病による死亡:不明ながら多数、換気不良による死者も継続的発生
※職業病や労働災害の長期的な死者数を正確に把握するのは記録が不十分で困難ですが、資料から明らかなのは事故だけで少なくとも16名が犠牲になった点です。
比較として他鉱山と比べると
同じ時期、佐渡金山や石見銀山でも墜落事故や職業病による犠牲者は報告されており、鉱山業界全体に共通する過酷な労働環境でした。
なお、戦時中には朝鮮人労働者や囚人などが強制的に働かされ、墜落事故や劣悪な環境によって命を落とす人もいたとされています。
生野銀山が後世に伝えた教訓
事故や労災の記録から、鉱山労働の危険性が見えてきます。現在では安全対策や労働環境改善が進んでいますが、鉱山遺構として公開されている生野銀山は、先人の犠牲を忘れない重要な遺産として保存・伝承されています。
まとめ:犠牲者と教訓を振り返る意義
生野銀山では、墜落事故で16名が命を落とし、職業病による犠牲者も多くいました。正確な人数は不明ですが、歴史を振り返る中で、労働環境の過酷さを風化させず、安全と人権の大切さを学び続けることが求められます。