明治時代前期、日本が近代国家として法整備を急ぐ中で、多くの法令が「〇〇法」ではなく「〇〇条例」という名称で公布されました。この時期の制度的背景を知ることで、その理由が見えてきます。
明治政府の法制度整備と「条例」の登場
明治初期の日本は、江戸時代の身分制度的・慣習的な法体系を廃し、近代的な法制度を導入する過渡期にありました。明治新政府は中央集権的な法整備を目指し、多くの法令を発布しましたが、それらの多くは「法」ではなく「条例」の形式をとりました。
たとえば「学校制度」や「税制」「警察」などに関する規定も、当初は「学制条例」「地租改正条例」「警察制度条例」などと呼ばれており、現在のような法律名とは異なります。
なぜ「法」ではなく「条例」だったのか?
その背景には、明治前期にはまだ「法律」という概念が厳密に制度化されていなかったことが関係しています。1889年に大日本帝国憲法が施行されるまでは、立法権の制度的根拠が不十分で、国会も未設置の状態でした。
つまり、「法律」を定めるための民主的な立法機関が存在せず、天皇の詔勅や太政官布告など行政主導で法令が制定されていたため、それらは正式な意味での「法」ではなく、比較的柔軟性のある「条例」という形で発布されるのが通例だったのです。
「条例」という語の意味と性質
「条例」とは、本来は一定の行政目的に応じて設けられる規則や命令を指します。明治初期の「条例」は、現在の「法律」よりも軽い位置づけで、主に行政機関(太政官や内務省など)によって制定され、時には簡易な手続きで改廃される性質を持っていました。
実際に、1870年代の法令には「布告」「達」「規則」「布令」「布達」など多様な名称が混在しており、「条例」もその一つにすぎませんでした。
大日本帝国憲法と法令名称の変化
1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌1890年に帝国議会が開設されたことで、ようやく正式な「法律(法案)」を議会で審議・可決する制度が整いました。これ以降、「〇〇法」という呼称が法体系において広く定着するようになります。
この制度的転換により、以後制定される重要な規範は「〇〇法」として国会で審議されるものが中心となり、それ以前の「〇〇条例」は徐々に改正・統合されていきました。
具体例で見る「条例」と「法」の違い
例えば、1871年に制定された「戸籍法」は当初「戸籍法則」と呼ばれていましたが、これはのちに「戸籍法」という正式な法律に改正されます。同様に「警察規則」や「小学校設置条例」も、後の「警察法」「学校教育法」へと受け継がれました。
このように、初期の「条例」は、後の「法」制定への布石として機能していたのです。
まとめ:制度の未成熟さと臨時性が「条例」という呼称に反映
明治時代前期の法令が「〇〇法」ではなく「〇〇条例」と呼ばれていた背景には、制度的未成熟さと行政主導の臨時的対応がありました。これらの法令は、後に本格的な「法制度」へと発展する重要なステップだったと言えるでしょう。
法制史を学ぶ上で、「条例」と「法」の使い分けを理解することは、近代国家としての日本の法的歩みを知る手がかりとなります。