違法行為を「善行・宗教行為だと信じていた」場合も犯罪になる?故意・違法性の意識・信教の自由を解説

刑法上禁止されている行為をした人が、「悪いことをするつもりはなかった」「人のためになる善行だと思っていた」「自分の宗教上必要な行為だった」と主張した場合、刑事責任はどうなるのでしょうか。

日本の刑法では、本人がその行為を善いことだと信じていたかどうかだけで犯罪の成否が決まるわけではありません。重要なのは、犯罪の成立に必要な事実を認識していたか、正当防衛など違法性を否定する事情があるか、責任能力があるかといった点です。

一方で、「法律で禁止されているとは知らなかった」という法律の錯誤と、「犯罪となる事実そのものを知らなかった」という事実の錯誤は区別する必要があります。さらに宗教行為には憲法上の信教の自由が関係しますが、宗教を理由に一般の刑罰法規が当然に適用されなくなるわけでもありません。

「善行だと思っていた」だけでは通常は犯罪を否定できない

まず押さえておきたいのが、本人の道徳的評価と法律上の評価は別だということです。本人が心から「これは正しい行為だ」と思っていても、その行為が刑法上の犯罪の要件を満たせば、それだけで処罰を免れるとは限りません。

例えば、他人を救うために必要だと本人が信じて相手を殴ったケースを考えてみます。相手に暴行を加えていること自体を理解しているのであれば、「助けるためだった」という善意だけから暴行の故意がなくなるわけではありません。もっとも、現実に正当防衛や緊急避難などの要件を満たしていれば別の問題になります。

つまり、「悪いことをする意思」が故意の成立に常に必要なのではありません。犯罪類型ごとに必要な事実を認識・認容していたかどうかが問題になります。

刑法38条では「罪を犯す意思」と法律を知らなかった場合を分けている

刑法38条1項は、原則として罪を犯す意思がない行為は罰しないと定めています。ただし、過失行為を処罰する特別な規定がある場合は別です。[e-Gov法令検索・刑法38条参照]

同条3項は、法律を知らなかったとしても、それによって罪を犯す意思がなかったとすることはできないと定めています。一方、情状によって刑を減軽できる余地も規定されています。

「違法だとは知らなかった」と「自分が何をしているのか知らなかった」は同じではありません。この区別が、善行や宗教行為だと信じていたケースを考えるうえでも非常に重要です。

「法律上許されていると思った」場合は違法性の錯誤が問題になる

行為の事実関係は理解していたものの、「この行為は法律上許されている」と誤解していた場合には、一般に違法性の意識や法律の錯誤の問題になります。

例えば、ある行為を宗教上の義務だと信じ、「宗教行為なら法律上も許されるはずだ」と考えて実行したケースです。本人は行為そのものを理解しています。この場合、「宗教だから合法だと思っていた」という認識だけで当然に故意が否定されるわけではありません。

刑法38条3項があるため、単純に「違法だとは知らなかったから無罪」という結論にはなりません。ただし、なぜ適法だと信じたのかという事情が量刑などで考慮される可能性はあり、具体的事情によって法的評価は変わります。

事実を勘違いしていた場合は結論が変わることがある

これに対し、本人が犯罪成立の前提となる事実を誤認していた場合は、単なる法律の勘違いとは違います。いわゆる事実の錯誤として、故意の成立に影響することがあります。

例えば、自分の所有物だと本気で思って他人の物を持ち帰った場合を考えると、「他人の物である」という犯罪成立に関係する事実について認識がありません。単に「他人の物を持って帰っても合法だと思っていた」という場合とは問題の構造が異なります。

宗教に関連するケースでも同じです。「宗教行為だから許されると思った」のか、「犯罪成立に必要な事実そのものを誤認していた」のかによって検討内容が変わります。そのため、本人の言葉だけではなく、実際に何を認識していたのかが重要になります。

宗教行為なら刑法が適用されないわけではない

日本国憲法20条は信教の自由を保障しています。どの宗教を信じるか、信じないかという自由は重要な基本的人権です。[e-Gov法令検索・日本国憲法20条参照]

しかし、信教の自由が保障されていることと、宗教を理由に他人の生命・身体・財産などを侵害する行為が無条件に許されることは別問題です。宗教的動機があれば刑法の適用がなくなるという包括的な免責制度はありません。

行為者が宗教的に正しいと確信していても、客観的に犯罪の構成要件を満たし、違法性・責任を否定する事情もなければ、刑事責任を問われる可能性があります。

宗教的な「治療」や儀式でも同じ考え方になる

分かりやすい例として、宗教的な儀式によって病気を治せると強く信じている人が、本人の意思に反して他人の身体に危害を加えたケースを考えてみます。行為者が「治療するためだった」と考えていたとしても、身体へ危害を加えている事実を認識していたのであれば、その善意だけで傷害などの成立が否定されるわけではありません。

もちろん、実際に成立する犯罪は行為内容や結果によって異なります。被害者の有効な同意があったのか、医療行為に当たるのか、結果をどこまで予見していたのかなども個別に検討されます。

このため「宗教行為だった」という一言から有罪・無罪を決めることはできません。刑事事件では、動機だけでなく行為そのものと当時の認識を細かく分析します。

「人を救うため」という目的と正当防衛・緊急避難は別問題

善意による行為が結果として法律上許されるケースもあります。ただし、それは単に本人が善行だと思っていたからではなく、正当防衛や緊急避難などの要件を満たす場合です。

例えば刑法37条には、自己または他人の生命・身体・自由・財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ず行った行為についての緊急避難の規定があります。生じた害が避けようとした害の程度を超えないことなど、法律上の要件があります。[e-Gov法令検索・刑法37条参照]

したがって「人助けのためだった」という主観だけでなく、本当に差し迫った危険が存在したのか、その方法が必要だったのかなどを客観的に検討することになります。

強い宗教的確信が責任能力の問題につながる場合もある

もう一つ区別しておきたいのが責任能力です。刑法39条は、心神喪失者の行為は罰せず、心神耗弱者の行為は刑を減軽すると定めています。[e-Gov法令検索・刑法39条参照]

ただし、宗教を強く信じていること自体が心神喪失や心神耗弱を意味するわけではありません。宗教的信念を持っている人にも通常は責任能力があります。

責任能力が問題になる事件では、精神状態や行為時の判断能力などが個別に検討されます。「宗教的な理由で行った」ことと「刑法上の責任能力がなかった」ことは別の論点として考える必要があります。

善意や宗教的動機が量刑に影響する可能性はある

犯罪が成立すると判断された後も、どの程度の刑を科すかという量刑の問題があります。そこでは犯行の動機や経緯、被害の程度、計画性、反省、被害弁償などさまざまな事情が考慮されます。

そのため、利欲目的で行った犯罪と、他人を救うという誤った信念から行った犯罪とで、あらゆる事件について同じ評価になるとは限りません。ただし「善意だから必ず軽くなる」というルールがあるわけでもありません。

善意を理由に危険な行為を繰り返していた、被害者の拒否を無視していた、重大な結果が予想できたといった事情があれば、本人の主張する善意が有利に評価されないこともあります。

犯罪になるかは「目的」だけでなく複数の段階で判断される

刑事責任を考えるときは、「善行だったか」「宗教だったか」という一つの要素だけを見るのではなく、犯罪ごとの構成要件に該当するか、故意または処罰対象となる過失があるか、正当防衛など違法性を否定する事情があるか、責任能力があるか、といった点を順番に検討します。

例えば「宗教上正しいと思って他人の物を壊した」という事案でも、物を壊したことを認識していたのか、その物が他人の所有物だと知っていたのか、所有者の承諾があったのかなどによって結論は変わり得ます。

「宗教行為だから無罪」「善意だから故意がない」という単純な公式はありません。何をしたか、何を認識していたか、なぜ適法だと考えたのかを分けて検討することが重要です。

まとめ|「善行・宗教行為だと信じていた」だけでは刑事責任はなくならない

法律上犯罪となる行為について、本人が「善行だと思っていた」「宗教上必要だった」と考えていたとしても、その理由だけで刑事罰を免れるわけではありません。宗教行為についても、信教の自由があるから一般の刑罰法規が当然に適用されなくなるというものではありません。

一方、犯罪となる事実そのものを誤認していた場合、正当防衛・緊急避難などが成立する場合、責任能力に問題がある場合などは、犯罪の成立や刑の重さに影響する可能性があります。単なる「違法だとは知らなかった」というケースとは区別が必要です。

実際の事件では、どの犯罪が問題になっているかによって必要な故意や過失も異なります。具体的な刑事事件について判断する場合は、「善意だったか」だけではなく、行為時に認識していた事実、行為の内容、被害、同意の有無、正当化事情などを整理したうえで、刑事事件を扱う弁護士に確認することが重要です。

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