赤根智子ICC所長はなぜアメリカから制裁された?「不当な判決をしたから」ではない理由と米国・ICC双方の主張を解説

2026年8月、国際刑事裁判所(ICC)の所長を務める日本人の赤根智子裁判官に対し、米国政府が制裁を科したことが報じられました。「裁判官個人が制裁されるほど重大な誤判や不当判決をしたのか」と受け取る人もいるかもしれません。

しかし、今回の制裁を「赤根裁判官が不当な判決を出し、その違法性や誤りが認定された結果」と理解するのは正確ではありません。米国政府が問題視している中心は、ICCが米国やイスラエルなどローマ規程の非締約国の国民についても一定の場合に捜査・訴追するというICCの管轄権の考え方です。

つまり今回の問題は、一裁判官の判決内容だけではなく、「ICCは非加盟国の国民をどこまで裁けるのか」という国際法上・外交上の大きな対立として理解する必要があります。ここでは米国の制裁理由、ICC側の法的根拠、イスラエルをめぐる争点を整理します。

赤根智子裁判官に対する米国の制裁は2026年8月に発表された

米国のマルコ・ルビオ国務長官は2026年8月18日、ICC所長の赤根智子氏とICCの上級法律官アブドゥライ・セイ氏を制裁対象に指定すると発表しました。根拠とされたのは、トランプ大統領が2025年に発出したICCに対する制裁の大統領令です。

米国政府は発表の中で、対象者について、自国政府がICCの管轄権に同意していない国の当局者を、ICCが捜査・逮捕・拘禁・訴追しようとする活動に直接関与したと説明しています。[参照:米国国務省]

制裁によって、米国内にある対象者の資産が凍結されるほか、米国の金融システムを利用した取引などにも制約が生じます。したがって非常に強い措置ではありますが、これは米国政府による外交・経済制裁であり、上級審裁判所などが赤根氏の判決を「違法な誤判」と認定した処分ではありません。

「不当な判決をしたから制裁された」という説明は正確ではない

裁判官に対する制裁と聞くと、特定の裁判で不正を行った、証拠を無視した、賄賂を受け取ったといった司法上の不正を想像しやすいでしょう。しかし米国政府が公表した赤根氏への制裁理由は、そのような個人的な司法不正を認定したものではありません。

米国側の主張は、そもそもICCが米国やイスラエルなどICC非締約国の国民へ管轄権を行使すること自体が国家主権を侵害する、というものです。米国はICCの設立条約であるローマ規程の締約国ではなく、イスラエルも締約国ではありません。

そのため、「判決内容があまりにも不当だったので米国が罰した」というより、「ICCの管轄権の行使そのものを米国政府が認めず、その活動に関与するICC関係者を制裁した」と説明するほうが実態に近いといえます。

背景にはネタニヤフ首相らへのICC逮捕状がある

米国とICCの対立が急激に深まった大きな要因の一つが、パレスチナ情勢をめぐるICCの捜査です。ICC予審裁判部は2024年11月21日、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相と当時のヨアヴ・ガラント国防相に対して逮捕状を発付しました。

ICCは、ガザで行われたとされる行為について、戦争犯罪や人道に対する罪に関する「合理的な根拠」があるとして逮捕状を発付しました。これは有罪判決ではなく、刑事手続きを進めるための逮捕状です。本人がICCで裁判を受け、有罪が確定したという意味ではありません。[参照:国際刑事裁判所]

米国政府はこの逮捕状を強く批判してきました。イスラエル政府もICCには自国民を裁く権限がないと主張しています。一方、ICC側はパレスチナがローマ規程の締約国であり、問題となった行為がパレスチナ領域で行われたとされることから管轄権を行使できるという立場です。

イスラエルがICCに加盟していないのに、なぜICCは管轄権があると考えるのか

ここが今回の問題で最も分かりにくい点です。ICCのローマ規程では、原則として、犯罪が締約国の領域で行われた場合、一定の条件のもとでICCが管轄権を行使できる仕組みになっています。

パレスチナは2015年にローマ規程の締約国となりました。ICCは2021年の判断で、同裁判所が扱うパレスチナ情勢について、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、東エルサレムまで管轄権が及ぶとの立場を示しています。

その考え方によれば、行為者本人の国籍国がICC非加盟国であっても、締約国の領域内でICC対象犯罪が行われたとされる場合には管轄権を行使できることになります。例えば日本国内で外国人が犯罪を行えば、日本国籍でなくても日本の刑法・裁判権が問題になるのと、考え方の構造には似た部分があります。

ただし、国家間の主権やパレスチナの国家性などが関わるため、国内刑法の例ほど単純ではありません。このICCの法解釈そのものを米国とイスラエルが強く争っているのが現在の状況です。

米国側にはどのような主張がある?

米国側の中心的な論理は、「同意していない国の国民を国際裁判所が一方的に裁くことを認めれば、国家主権が侵害される」というものです。米国は自国の軍人や政府関係者についてICCが捜査することにも以前から強い反発を示してきました。

今回の赤根氏への制裁でも、ルビオ国務長官はICCを政治化された超国家的な裁判所と批判し、米国や他の非締約国の国民に権限を及ぼすことは危険な前例になるという趣旨の主張をしています。

この立場から見ると、問題は「ネタニヤフ氏が何をしたか」だけではありません。非締約国が同意していないにもかかわらず、その政府関係者をICCが捜査・訴追できる制度そのものを米国は問題視しています。

ICC側と支援国は制裁を「司法の独立への攻撃」と批判

ICCは赤根氏らへの制裁に対し、裁判所の独立性に対する攻撃だとして強く反発しました。ICCの立場では、裁判官や検察官は加盟国が作ったローマ規程に基づいて職務を行っており、その司法活動を理由に個人へ経済制裁を科すことは法の支配を損なうという考え方です。[参照:国際刑事裁判所]

日本政府も今回の赤根氏への米国制裁について「極めて遺憾」との趣旨の反応を示し、ICCの活動を引き続き支持する姿勢を示しています。また、欧州諸国などからもICCの独立性を擁護する反応が出ています。

したがって国際社会で「赤根氏が不正な裁判官だから制裁されて当然」という共通認識が成立しているわけではありません。むしろ、米国の制裁措置そのものに反対している国や国際機関も多くあります。

赤根氏自身がネタニヤフ氏への逮捕状を出したの?

ここも誤解しやすいところです。ネタニヤフ氏とガラント氏への逮捕状を2024年11月に発付したのはICCの予審裁判部であり、赤根氏個人が単独で「ネタニヤフ氏を逮捕する」と判断したものではありません。

赤根氏はICC所長という重要な立場にありますが、ICCでは各事件を担当する裁判部の裁判官が司法判断を行います。所長だからといって、すべての事件の逮捕状や判決を自ら決定しているわけではありません。

米国の2026年8月の制裁発表も、赤根氏について特定の一つの判決を挙げて「この判決が不当だった」と説明したものではなく、ICCによる非締約国関係者への捜査・逮捕・訴追活動への関与を理由として挙げています。

赤根氏は過去にプーチン大統領の逮捕状発付にも関与した

赤根氏はICC裁判官として、2023年にロシアのウラジーミル・プーチン大統領らへの逮捕状を発付した予審裁判部の裁判官の一人でもありました。これに対しロシア側は赤根氏を指名手配するなど、ICC関係者へ対抗措置を取っています。

これはICC裁判官が、大国や非締約国の政府首脳に関する事件を扱うことで政治的な圧力を受ける例の一つです。ただしロシアによる措置と2026年の米国による制裁は別個のものなので、混同しないことが重要です。

こうした事例からも、ICCをめぐる争いは単なる裁判内容の評価ではなく、国際刑事司法と国家主権のどちらをどこまで優先するのかという長年の問題につながっていることが分かります。

「制裁された=裁判官として間違っていた」とはいえない

国家による制裁は、裁判の上訴手続きとは性質がまったく異なります。通常、判決の法的な誤りを争うのであれば上級審やICC内部の手続きによって審査します。一方、今回の措置は米国大統領令に基づく外交・経済政策としての制裁です。

そのため、制裁されたという事実そのものから「赤根裁判官の法解釈が誤りだった」と結論づけることはできません。逆に、制裁を受けたから「ICC側が必ず正しい」と結論づけることもできません。

争点は、パレスチナをICCの領域管轄の基礎として認められるか、非締約国の国民にも領域管轄を及ぼせるか、ICCの手続きが適切だったかなど複数あります。法律上の議論と米国政府の政策判断を分けて見る必要があります。

米国とICCの主張を比較すると分かりやすい

論点 米国側の主張 ICC側の考え方
非締約国の国民 同意していない国の国民へ権限を及ぼすべきではない 犯罪が締約国の領域で行われた場合などは管轄権を行使できる
イスラエル ICC締約国ではなく、ICCの管轄権を認めていない パレスチナの領域管轄を根拠にイスラエル人についても扱える
ネタニヤフ氏への措置 ICCの権限逸脱として強く反対 逮捕状発付に必要な合理的根拠があると判断
ICC関係者への制裁 国家主権を守るための措置 司法の独立と法の支配への攻撃と批判

このように整理すると、今回の問題が「良い裁判官か悪い裁判官か」という人物評価だけでは説明できないことが分かります。

まとめ|赤根裁判官への米国制裁は「不当判決への処罰」とは違う

ICC所長の赤根智子裁判官が2026年8月に米国から制裁を受けたことは事実です。しかし、その理由を「不当な判決を出したことが認定されたから」と説明するのは正確ではありません。

米国政府が公表した理由は、ICCが米国やイスラエルのようにICCへ加盟していない国の当局者を捜査・逮捕・訴追しようとしており、赤根氏がその活動に関与しているというものです。背景にはネタニヤフ首相らへのICC逮捕状などをめぐる激しい対立があります。

一方、ICCはパレスチナがローマ規程の締約国であり、その領域で行われたとされる犯罪については非締約国の国民でも管轄権を行使できるとの立場です。日本や欧州諸国などもICCの独立性を支持しています。したがって今回の制裁は、赤根氏個人の司法能力や一つの判決への評価というより、ICCの権限と国家主権をめぐる米国と国際刑事裁判所の根本的な対立として理解するのが適切です。

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