日本国憲法26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定められています。この「その能力に応じて」という言葉から、体育で跳び箱や鉄棒ができない児童は、その種目を拒否できるのではないかという疑問が生じることがあります。
しかし、憲法26条の「その能力に応じて」は、児童本人が「自分にはできない」と判断した個々の授業や課題を自由に辞退できる権利を直接定めた文言ではありません。一方で、学校が児童の身体能力や健康状態を無視して危険な運動を強制してよいという意味でもありません。
この問題を理解するには、「教育を受ける権利」と「個々の授業への参加」、さらに学校・教員が負う安全への配慮を分けて考える必要があります。
憲法26条は何を保障しているのか
憲法26条1項は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定しています。また2項では、保護する子女に普通教育を受けさせる義務と義務教育の無償を定めています。[参照:e-Gov法令検索 日本国憲法]
ここでいう教育を受ける権利は、国民、とりわけ子どもが教育の機会を保障されることに重点があります。衆議院憲法審査会関係資料でも、教育は個人の人格形成に不可欠であり、知識や教養を身につけて各人の能力を開花させる過程として説明されています。
したがって「権利なのだから、算数は受けるが体育は受けない」「跳び箱だけは自分の判断で授業から外れる」といった個々の授業科目・学習内容を自由選択できる権利まで、憲法26条から当然に導かれるわけではありません。
「その能力に応じて」は「できない課題を拒否できる」という意味ではない
「その能力に応じて」という部分を、体育の能力だけに置き換えて考えると誤解しやすくなります。この文言は、教育を受ける機会について能力に応じた教育を保障するという文脈に置かれています。
例えば「逆上がりが現在できない」ということと、「逆上がりを学習する授業そのものを受けなくてよい」ということは別問題です。学校教育では、まだできないことについて練習し、技能を身につけていくこと自体が学習になります。
算数でまだ割り算ができない児童が割り算を学習したり、英語を話せない児童が英語を学んだりするのと同様、「現時点ではできない」という事実だけから、その学習内容を扱えないことにはなりません。
では「20段の跳び箱を跳べ」と要求してもよいのか
ここでは別の問題が出てきます。仮に児童の技能や体格、経験などから見て明らかに危険な高さの跳び箱を、適切な段階的指導や安全確保をせず無理に跳ばせるのであれば、「教育を受ける権利だから拒否できるか」という問題より、学校教育における指導の合理性や安全確保の問題として検討する必要があります。
体育では、できない運動を練習させること自体が直ちに問題なのではありません。「できないから練習する」ことは体育教育として普通にあり得ます。しかし、児童の技能に対して著しく難度が高い運動を、重大な負傷のおそれがある状態で無理に実施させてよいことにはなりません。
例えば低い段から練習し、踏み切りや手の付き方を学び、補助を受けながら徐々に高さを上げる場合と、経験の乏しい児童に突然極端に高い跳び箱を跳ばせる場合とでは、安全面でも教育上の合理性でも大きく異なります。
「できない」と言えば先生はそれ以上要求できないのか
児童が「できません」と言っただけで、教員がそれ以上指導できなくなるという一般的なルールがあるわけではありません。学校では児童の習熟状況を見ながら、練習方法を変えたり補助したりして学習を進めることがあります。
一方、「怖い」「痛い」「体調が悪い」「以前けがをした」「この高さでは危険だと思う」といった訴えは軽視すべきではありません。特に身体的な危険を伴う体育では、児童の状態を確認したうえで適切な対応をする必要があります。
つまり、「できないと言ったら必ず免除」でも「授業だから何があってもやらせてよい」でもありません。児童の能力・習熟度・健康状態と、課題の必要性・難度・安全性を具体的に考える必要があります。
組体操は安全性を確保できなければ実施を控えるよう求められている
この考え方が特に分かりやすいのが組体操です。スポーツ庁は学校での体育活動について事故防止を繰り返し求めており、組体操については、適切な安全対策を確実に講じられない場合には実施を厳に控えるよう学校側へ通知しています。[参照:スポーツ庁 学校における体育活動中の事故防止及び体罰・ハラスメントの根絶について]
またスポーツ庁は、児童生徒への事前指導を含む計画的な指導計画を作成し、地域の実情や子どもたちの状態を踏まえて対応することが重要だとしています。[参照:スポーツ庁 体育活動中の事故防止について]
これは「児童が嫌だと言えばすべて中止」という意味ではありませんが、学校側にも安全な教育環境を整える責任があり、教育目的を理由に危険な運動を無制限に要求できるわけではないことを示しています。
体罰や過度な負荷も許されない
さらに、体育の指導だからという理由でどのような要求でも許されるわけではありません。スポーツ庁は体育活動について、体罰・ハラスメントの根絶を求めています。
過去の通知でも、殴る・蹴るといった行為だけではなく、安全確保や社会通念の観点から認め難い肉体的・精神的負荷、威圧・威嚇的言動、人格否定的発言、特定の児童生徒への執拗で過度な言動などは許されないとの考え方が示されています。[参照:スポーツ庁 体育活動中の事故防止及び体罰・ハラスメントの根絶]
したがって、能力的に困難な運動について児童が恐怖や痛みを訴えているにもかかわらず、事情を確認せず危険な方法で繰り返し強制するようなケースでは、憲法26条だけを問題にするのではなく、安全配慮、教育上の合理性、体罰・ハラスメントなど複数の観点から検討する必要があります。
体育を受けることが「権利」なら自由に辞退できるのか
ここで重要なのが、「権利であること」と「学校の授業を本人の意思だけで自由に選択・辞退できること」は同じではないという点です。憲法26条が教育を受ける権利を保障しているからといって、小中学校の児童生徒が教育課程の中から好きな教科だけを選択できる仕組みになるわけではありません。
例えば国語が苦手だから国語だけ受けない、算数の問題が難しいから算数を辞退する、体育が苦手だから体育全体を受けない、という選択権を憲法26条そのものが保障しているとは解されません。
ただし、けが、疾病、障害その他の事情がある場合には話が別です。具体的な事情に応じて運動内容の変更、見学、別課題などの配慮が必要になることがあります。「授業への参加」と「危険な特定動作を無理に行わせること」は分けて考える必要があります。
「能力に応じた教育」とはむしろ適切な指導を受ける方向で考える
体育の例なら、「跳び箱ができないから体育を受けない」という二択にするより、その児童の技能に合わせた段階から学べるようにするという考え方が教育の趣旨に合いやすいでしょう。
例えば高い段を跳べない児童には低い段で練習させる、動作を分解して練習する、教員が補助する、別の方法で同じ学習目的を目指すなどが考えられます。鉄棒についても、逆上がりが完成しているか否かだけでなく、それにつながる動作を段階的に学習する方法があります。
教育は「できる人だけが実施し、できない人は辞退する」というものではありません。現在の能力と課題との間を適切な指導によって埋めていくことも教育の重要な役割です。同時に、その過程で児童の安全や尊厳が軽視されてよいわけでもありません。
実際に学校で無理な運動を要求された場合はどうする?
現実に児童が体育で「自分には危険でできない」と感じる運動を要求されている場合は、いきなり憲法違反と断定するより、具体的な事情を整理することが重要です。
「何段の跳び箱なのか」「それ以前の段階はできているのか」「教員の補助はあるのか」「本人にけがや身体上の事情があるのか」「失敗した際の危険性はどの程度か」「別の練習方法が用意されているか」などによって評価は大きく変わります。
本人が痛みや強い恐怖を感じている場合は、まず教員へ具体的に伝え、必要に応じて保護者から担任・体育担当・学校管理職へ相談します。疾病やけがなど医学的事情がある場合には、医療機関の意見を学校へ伝えることも有効です。安全上重大な問題が改善されない場合には、学校の設置者や教育委員会などへの相談も検討できます。
まとめ:憲法26条は「できない体育を自由に辞退できる権利」を定めた条文ではない
憲法26条の「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」という文言は、児童が自分の能力を超えていると判断した個々の授業や課題を自由に辞退できることを直接保障した規定ではありません。したがって「逆上がりができないから鉄棒の授業を拒否できる」「跳べないから跳び箱の指導自体を拒否できる」という結論が憲法26条から直ちに導かれるわけではありません。
その一方で、学校や教員が教育を理由として児童の能力、健康状態、恐怖、けがの危険性などを一切無視し、危険な課題を無制限に強制してよいわけでもありません。体育では特に安全確保が重要であり、スポーツ庁も事故防止や体罰・ハラスメントの根絶を学校へ求めています。
したがって実際の問題では、「権利だから授業を拒否できるか」という一点だけではなく、課題が教育上合理的か、児童の習熟度に応じた段階的な指導が行われているか、安全対策が十分か、健康上の事情への配慮があるかを具体的に確認することが重要です。